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沖縄でのカジノ開設の可能性②-全4回

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更新日:2018年6月7日

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少女暴行事件と普天間基地返還・辺野古移設計画

 2014年11月の県知事選挙で、現職の仲井眞氏と、元・那覇市長の翁長氏が争い、翁長県知事が誕生した。この選挙では、普天間基地の辺野古への移設計画への賛否が最大の争点となった。辺野古への移設を不可避と判断した仲井眞氏を、辺野古移設に断固反対した翁長氏が破った。この時点の県民の審判で、辺野古移設への反対が民意として示されたのだ。結果的にIR誘致運動を中断させることになった普天間基地の辺野古への移設計画について、その経緯を確認しておく。

 1995年9月に起こった米兵による女子小学生暴行事件は、県内に基地が集中する状況に対する県民の不満を爆発させるきっかけとなった。県民感情の悪化は、日米安保同盟を不安定化させるまでに先鋭化した。打開策として提出されたのが、普天間基地の辺野古移設計画であった。那覇都市圏に含まれる宜野湾市の中心部に立地する普天間飛行場を中核施設とした米軍の普天間基地は、県内でも人口密度のもっとも稠密な市街地にあることから、事故の危険性が高いと指摘されるだけでなく、県の経済発展を阻害していると見なされている。その普天間基地の機能を、名護市東海岸の辺野古地区にあるキャンプ・シュワブに統合・強化しようとしたのが、普天間基地の辺野古移設計画である。少女暴行事件を受けて日米政府の高官で構成する日米安全保障協議委員会は状況の改善を目的に「SACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会、Special Action Committee on Facilities and Areas in Okinawa)」の設置を1995年11月に決定し、普天間基地の日本返還と基地機能の移設について検討を開始した。

 1996年12月にはSACOの最終報告が出されたものの、キャンプ・シュワブ拡張の具体的な工法が決まらず、また辺野古が移設先とされたことについても反対の意見が出るなど、日米両政府、県、名護市、そのなかの久志地域、さらにそのなかにある辺野古地区の間の合意形成には至らない状況がつづいた。業界団体では建設業界、漁業関係者などにもそれぞれの意向があり、自然環境への影響にも一定の配慮がなされる必要があった。1997年12月には、名護市で辺野古移設の是非を問う住民投票が行われ、反対の民意が示されたものの、比嘉鉄也市長は基地の受け入れを表明し、市長はその直後に市政混乱の責任を取って辞任した。当時の県政では大田昌秀知事は県内移設に反対の立場を採っていたが、日本政府による沖縄県振興策の凍結に対する経済界の反発などから、1998年11月の県知事選では自民党推薦で移設を期限付きで容認した稲嶺惠一氏が当選した。2004年4月には普天間基地に隣接する沖縄国際大学に普天間基地配備の米軍ヘリコプターが墜落する「沖国大米軍ヘリ墜落事件」が起こったものの、夏休み中だったこともあって幸いにも事故の死傷者はなく、全県民を巻き込んでいたかのような1995年の少女暴行事件後の反米軍基地運動の高まりが再現されることはなかった。2006年11月の県知事選に勝利し稲嶺氏の後を継いだ仲井眞知事は稲嶺氏と同様に、日本政府と一定の距離をとりつつも、国と県の関係を決定的に悪化させることはなかった。2009年5月には、普天間基地機能の辺野古新基地への移設計画を含んだ米軍再編協議の最終報告「再編実施のための日米のロードマップ」が国会での承認を受けた。少女暴行事件から約15年が経過しようとしていたが、普天間基地の返還と辺野古新基地の建設がいよいよ実現されるかに見えた。


鳩山政権「最低でも県外」の影響

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 2009年8月に衆議院の総選挙が行われた。その前月、民主党代表の鳩山由紀夫代表は沖縄市内の集会で普天間基地の基地機能の移設先は「最低でも県外」と発言し、この発言はマスコミで大きく取り上げられた。選挙の結果、民主党は全480議席のうち単独で308議席を占める圧勝となった。沖縄県内の選挙区においても、辺野古移設を容認する姿勢を示した候補者は全員落選し、辺野古移設に反対する議員が当選した。翌2010年1月の名護市長選においても、辺野古移設に反対する稲嶺進氏が当選した。反対派である稲嶺氏の名護市長就任は、地元自治体首長の意向として、その後の辺野古移設反対運動に正当性を与える根拠となった。


 鳩山民主党党首が首相に就任した民主党政権にとってその発足当初より、集会での「最低でも県外」発言が実質的な選挙公約と見なされたために、大きな足枷となっていた。アメリカ政府は、日本政府と総選挙前に交わした「ロードマップ」を見直す必要性を認めず、外務省をはじめとする日本政府の官僚たちの多くも、民主党政権ではなくアメリカ政府の立場を支持した。鳩山首相は沖縄県外での移設先を模索したが、見つけることはできなかった。閣内での政策の不一致を露呈する事態が相次ぎ、鳩山首相による移設先について「腹案がある」との発言についても、その場しのぎの出まかせであったことが後日になって明らかになっている。2010年5月、鳩山首相は沖縄で仲井眞知事と会談し、日米同盟を堅持するために県外移設を断念する考えを伝えたが、いったん高まった県民の反基地感情を考えれば、その場で了承できるものでは到底なかった。翌6月に政権混乱の責任を取って鳩山氏は首相を辞任し、菅直人氏が後継の首相に就任した。菅首相も県外だけでなく県内でも移設先を模索したが、どこも正式な移転先の候補地とすることができなかった。


民主党政権末期の野田佳彦内閣になると、政権担当能力は衰え、総選挙を前に野党は分裂し、小政党が乱立するようになっていた。民主党政権の失敗は、沖縄県外では民主党をはじめとする野党への失望と自民党政権への期待感を招来した。一方、沖縄では、鳩山首相が「最低でも県外」の夢を県民に見せ、その夢を無残に打ち破ったことは、期待感が大きかった反動により「ヤマト(日本政府および日本人)に騙された」あるいは「裏切られた」という感情を残した。そして1995年の少女暴行事件への県民が激しく継続的に反発したものの、約15年が経っても普天間基地の返還さえ実現せず、結果的には何も具体的な成果を残していないことに、多くの県民は疲労感と無力感を覚えるようになっていた。

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